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2010年07月08日 わがまち

7月7日

修羅のノート

「修羅のノート」は大手町の杉山医院で販売している。

杉山医院院長の杉山博重氏が書き下ろした「修羅のノート」を読んだ。昭和20年7月7日の夜、サイパン島から飛来したB29による清水大空襲の記憶を、昨年12月8日に自費出版された。12月8日と7月7日、著者の深い想いを日付に感じる。

「空襲の当夜、清水市立病院はまっさきに直撃をうけて炎上してしまい、清水厚生病院(当時は木造、駅前にあった)の夜の当直は、内科医一名きりで、外科系医療機関としては杉山医院(当院)だけが焼け残ったのでした。その日(7月8日)、父親の手伝いで、ほぼ二百名から二百五十名の治療にたづさわり、その内で手足の切断者は十名前後だったことを記憶しています。」(前言より)

七夕まつり

新清水駅の七夕飾り。幼稚園の子ども達が願い事を書いている。「さんたさんはやくきてください」と書かれた短冊には笑った。

65年前の同じ日、清水の人たちが「修羅」としか言いようのない体験をした。漠然とは知っていた大空襲が、なまなましい記憶として蘇ってくる。風化させてはいけない、忘れてはいけない、伝えなければいけない。毎年、この季節になると、それを感じる。

朝顔

各地でゲリラ豪雨による被害が伝えられている。清水は穏やかな梅雨だ。

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「7月7日」へ届いたコメント

65年前の大空襲、当時の飯田村も相当な被害を受けたと聞いています。9歳だった亡父は、避難の途中で家族とはぐれたらしく、祖母や伯母たちは必死になってあたりを探したのですが見つからず、途方に暮れていたところへ近所の小父さんに背負われて帰ってきたんだとか。昨年久し振りに会った伯母に聞かせてもらいました。9歳といえば、いまの私の娘とほぼ同じくらいの年格好ですが、どんな思いで戦火の中を生きていたんでしょう。戦中のこと戦後のこと、もっと両親と話しておけばよかったな、と思うも後の祭りです。

 私の母は、静岡の空襲で焼け出され、庵原の知人宅に寄留していたそうです。戦後も結局静岡に帰ることなく。

 父は、静高生だったはずですが、戦争中の話は(と、いうよりは自分の話は)ほとんどしません。聞いておかなきゃな。

「修羅のノート」、こんど買いに行きます

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