清水港開港110周年

朝6時少し過ぎの日本丸。甲板では乗組員が朝の体操を行っていた。動作を指示する号令の大きな声が港に響く。
18日は、第3日曜日。ドリプラ前駐車場で「あっ朝市」が開かれる日だ。前日に、鹿島神社で行われた相撲甚句の片付けで、8時に集まらなければならないため、いつもより早目に、ドリプラへ向かった。朝市利用客用の無料駐車場に車を入れる。朝市会場で友人達に挨拶をして、日の出埠頭に向かった。日本丸と海王丸が停泊しているからだ。

港には大勢の写真愛好家が望遠レンズを両船に向けていた。時折、「前を失礼します」と、カメラの前を横切る時の挨拶が聞こえる。
日本丸と海王丸の二艘が同時に入港するのは10年ぶり。前回は清水港開港100周年を記念しての入港だった。日の出埠頭に優美な姿が連なる姿は絵になる。興津コンテナ埠頭のガントリークレンの向こうに富士山が、微かに見えた。山頂が白い。昨夜の雨が雪となって積もったようだ。

手前が日本丸、後が海王丸。見分け方の説明が、清水港客船誘致委員会のサイトにある。
清水港客船誘致委員会のサイトに「清水港開港110周年特集~清水港の歴史~」というページがある。ここに清水港の年表が判りやすく書かれている。
清水港は明治32年(1899)、政府から開港場に指定され外国との貿易が認められた。この年が開港元年となる。清水最大のイベントである「港まつり」は、敗戦後、開港場に指定された8月4日を記念する祭りとして開催された。

左端のビルは鈴与本社、中央はエスパルスドリームランド(ドリプラ)、その右に見える黒い部分のあるビルが旧清水市役所(現区役所)。後方に山原山の中継所と龍爪が見える。赤錆びた倉庫のすぐ脇に、明治時代の護岸石組みが残っている。この景色のなかに、清水の歴史が凝縮されている。
清水港が開港場に指定された当時、輸出品の中心は茶葉だった。今年開港150周年を迎えた横浜港から、北米に輸出されていた茶葉を、生産地に近い清水港から輸出できるようになったからだ。輸入品の中心は中国からの大豆だった。大豆は食用油となり、絞った粕は肥料として全国へ出荷された。
中世から幕末まで、清水港は巴川の河岸だった。読みは同じ「みなと」だが「湊」の字が使われていた。鎖国が終わり、貿易が始まると大量の物資を効率よく運ぶため、外港として湾の外に港を作った。そして「湊」から「港」となった。清水港は、清水の近代化の原点である。この原点を語る時、晩年の次郎長の活躍を欠かすことはできない。
日本丸と海王丸が停泊している日の出埠頭の近くに、波止場と呼ばれる小さな船溜まりがある。
赤さびた倉庫の海側に、明治時代の港の石組みが残っている。倉庫の山側の空地には、次郎長が晩年を過ごした船宿「末廣」があった。この場所は、清水の近代化を語る上で欠かすことのできない原風景といえる。そして、残さなければならない景観だと思う。
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