次郎長の葬儀(5)

明治22年に作成された2万分の1の地図に葬列のルートを書き加えた
「まちの思い出」に書かれた次郎長の葬列が歩いた道筋を、明治22年の地図に描いてみた。
緑色で描いた道筋をそのままに、ALPSLABが提供している現在の地図に重ねてみたのが下図である。明治22年の地図は測量の精度に甘さがあるらしく、同じように重ならない部分もあるが、現在の道路から見てどこを歩いたのか判ると思う。

●ALPSLAB LOUTEで葬儀の道順を描いてみた≫
地図の左下、三角印のスタートボタンをクリックすると道案内がいごきます。
「次郎長の葬儀」でどの道を歩いたのか、道筋を調べながら、波止場から梅蔭寺まで何度も歩いてみた。初めての道もあれば、車や自転車で何度も通った道もある。
知っているつもりの道でも、次郎長の時代を想像しながら歩くと、周囲の景色が新鮮に感じた。この道を次郎長や子分たちも歩いたのだろうかと思い浮かべるだけで、足取りが軽くなった。下清水八幡宮の大楠を見上げていると、歴史の中を歩いているような気分になる。

明け方の巴川河口付近。羽衣橋の下に釣り船が集まっている。
次郎長の葬儀には数千人の参列者が行列を作ったという。
その日の天気はどうだったのだろうか。波止場を何時に出発して、最後尾が梅蔭寺についたのは何時だったのだろうか。誰が葬列に加わったのだろうか。沿道で清水の人たちはどんな気持ちで見送ったのだろうか。興味は尽きない。

春の清水港。風はまだ冷たいが、波の色、空の色は春だ。
大きな声では言えないが、次郎長を知ることが、幕末から明治にかけての清水の歴史を知ることだと気がついたのは、つい最近のことだ。
NHK大河ドラマで「篤姫」は京都から江戸に向い東海道を進んだ。府中に宿をとり、稚児橋を渡り江尻で休息したのかもしれない。次郎長は、そんな時代に生きていた。
自分が、いま歩いているこの道を次郎長や山岡鉄舟も歩き、風になびく下清水八幡の大楠や遠くに見える竜爪山を眺めていたのかと思うと、歴史に生命が吹き込まれたような気がする。

梅蔭寺にある次郎長の墓碑。揮毫は榎本武揚である。
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「次郎長の葬儀(5)」へ届いたコメント
次郎長翁を知る会の新しい会報が、今日届きました。「次郎長フォーラム」の特集を読みながら、雨天にもかかわらず清水テルサのホールを満席にした、あの日の熱気を思い出します。
「次郎長の葬儀」の掲載にあたっては、いろいろな方から資料やアドバイスを頂きました。ネットを利用した共同作業だったと思っております。これからもよろしくお願い申し上げます。
磯波 | 2008年04月02日
講談や浪曲、映画などで大活躍した着色された次郎長ではない「素の次郎長」を知っているのは地元衆だけでしょう。
しかしそれを語る生き証人は年齢的にもう存在しない。
まちの語り部が語った次郎長の葬列の話しと、それを拾い上げた広報しみずの「まちの思い出」の存在。そして次郎長の晩年にリアルタイムの古地図。ここにデジタルの力を駆使して「次郎長の時代」の様子が浮かびあがってきました。時代の生き証人は居なくとも当時の様子を再現する新しい手法に感銘いたしました。
素晴らしい資料有難うございます。
「次郎長を知ることが、幕末から明治にかけての清水の歴史を知ることだ」
いい響きですね。
次郎長の後半生を語る上で「日本で初めて英語塾を作った」とか「大型汽船の到来から波止場の整備を説いた」とか「富士の裾野を開墾した」というような主にベンチャー的な事業について揚げ、次郎長の先鞭性を評価する声も多いですが、維新受難者に対する世話やその就業先として模索した事業などの数々の行動は、地味ではあるがもっとも次郎長の志を語るものではないかと思います。
そしてその一つ一つを知ることで確かに、清水の幕末維新が見えてくるような気がするのです。
『次郎長の葬儀(1)~(5)』を、当会ホームページよりリンクさせていただきす。
http://jirocho.com/kaihou-12.html
今後とも宜しくお願いいたします。
ご活躍期待しております。
次郎長翁を知る会HP管理者 | 2008年04月02日