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2008年03月05日 2 川

徳川慶喜が写した巴川

徳川慶喜が撮影した巴川

徳川慶喜が撮影した「清水港橋より港内(茨城県歴史館蔵)
「徳川慶喜と明治の静岡写真展 写された明治の静岡」より
(編集・発行 静岡市教育委員会 発刊1998年8月7日)

徳川慶喜が撮影した写真になかに「清水港橋より港内」と題された一枚がある。左側への湾曲と山が写っていないことから河口にカメラを向けていると思う。薪らしき束がたくさん見え、当時の暮らしが伝わってくる。

この写真は、波止場の写真と同じ明治20年代後半という。1878年(明治11)に清水湾に面した波止場が作られ、翌1879年に港橋が開通するまで、歌川広重が描いたように、清水港は巴川河口付近と、それに続く海岸だった。

江戸時代の清水

「わが郷土清水」のなかで筆者の鈴木繁三氏が描いた「江戸時代の郷土想像地図」(図32/136ページ)に海の部分を着色した。

明治12年、波止場が造られ荷役の扱いが増えた。荷物を運搬する必要さから港橋が作らる。それまで巴川に架かる橋は稚児橋だけだった。

江戸時代の東海道は、興津から横砂、嶺を通り、辻を過ぎた所で西へ曲がり、現在の清水銀座から稚児橋を通って入江に入る。街道がクランクになっているのは、ここに江尻本陣があり、警備のため見通しを悪くしたためである。

入江から追分に向う東海道と、南へつづく久能街道の三叉路は現在と同じだ。

清水港は次郎長の時代に造られた波止場が近代化の口火となり、拡張を続け現在に至っている。当時の姿を残している「次郎長堤」にしても、地面に埋められた状態になり、当時の港を連想させるものではなくなった。

昔の姿を知ることは、現在の姿がどんな成り立ちを持っているのかを知ることだ。成り立ちを知ることのなかで、これからの姿を想像させるヒントがあるような気がしてならない。タイムトラベルは、未来への旅でもある。

港橋から南側の河口方面を望む

港橋から南側の河口方面を望む。徳川慶喜も、この辺りにカメラを置いたのだろうか。

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