御穂神社

1月6日の午後、御穂神社にお参りをした。
日曜日とはいえ、七草粥の前日ともなると、さすがに人影は少ない。それでも拝殿のなかで神官からお祓いを受けている人たちの姿が見える。枝に結ばれた無数のおみくじと、賽銭箱を囲む白い布から初詣の賑わいが想像できる。

現在の三保、折戸、駒越は、江戸時代には御穂神社の社領で、神官の太田氏が領主だった。「駿河国三保村誌」に、当時の石高が記されている。三保54石、折戸17石、別府(駒越)35石、合計106石である。
秀吉が行った太閤検地に始まり明治時代の地租改革まで、財政規模は米の生産力に換算して示された。これを石高制(こくだかせい)と呼ぶ。1石は、1人が1年間に食べる米の量を1000合として計算している。1000合=100升=10斗=1石となる。
「わが郷土 清水」には江戸時代の石高を清水の地区別に分類している。代官の所領地の石高を書き出してみる。興津地区1245石、江尻地区441石、辻地区258石、飯田地区514石、高部地区62石、清水地区104石、入江地区1236石、不二見地区832石、有度地区1033石。これらの地区には、代官の他に旗本の所領地もあるので、石高の合計は更に増える。
この時代、御穂神社の氏子は3500人という。それに対する三保、折戸、駒越の合計が106石である。いかに少ない数字なのかが判る。
やせた砂地に苦労する農民に、サツマイモの栽培を教えた人物がいる。入江の慈雲寺の僧、長泉和尚である。安永年間(1772~1780)、九州からサツマイモの苗を取り寄せ、栽培を奨励した。
サツマイモの栽培では青木昆陽が有名だが、この時代、すでに西日本ではその栽培が広がっていたという。大勢の先人が各地で、飢饉への備えとしてサツマイモの栽培を奨励したと考えたい。
羽衣の舞が奉納される舞殿を背にして鳥居を見ると、その先には。「神の道」と名付けられた松林が海まで続く。御穂神社が領主だった時代、三保に暮らした私たちの先祖はどんな気持ちで、この松林を見ていたのだろうか。

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「御穂神社」へ届いたコメント
こんにちは(^^)
私の実家も三保にあります。毎年、年末年始は三保に帰省し今年の元旦も御穂神社に初詣に出掛けました。
参拝の後、三保の松原にある茶店でおでんを食べるのが恒例行事となっています。
モカ★ | 2011年03月04日
大学教員を退職して80歳になる者です。
祭の研究で、江戸時代に当地の神主家に3代つづいて継いだ三保神社の神主家太田家の家紋を知りたいと願っております。
「三保村誌」というようなもののあるようですし、子孫の方がおられたり、菩提寺、墓などがわかれば手掛かりになるのではないかと思っていますが。
最後の神官健太郎は、明治元年12月に暗殺され、後に靖国神社にまつられたとインターネットで検索して知りました。
どうぞよろしくお願いします。
宮川康雄 | 2011年01月11日