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2008年01月05日 興津

興津宿

興津では注連飾りを長い縄で張り巡らせる

東海道に面した興津の家々では正月の注連飾りを個々の家が付けるのではなく、長縄を張り巡らせる。円筒型の郵便ポストも健在である。

興津の話を続けよう。

東海道五十三次を定めたのは徳川家康である。1601年(慶長6)の正月に代官頭の彦坂元正(ひこさかげんしょう)に東海道の巡視を命じ、それを基に日本橋から京都まで53の宿を定めた。静岡県内には東の三島から、西の白須賀まで22の宿があった。

興津宿

興津交番横にある「興津宿」の表示。交番の横には興津公民館があったが、新しい公民館が清見潟公園内に出来たため取り壊され、更地になっている。

「わが郷土 清水」(戸田書店刊)には、関所や宿場として興津が選ばれた理由が書かれている。

まず、東海道を西へ行くためには由比からは海岸沿いの難所か、薩?峠を越すしか道はなかった。どのルートを通っても興津に出た。次に、興津川に沿って甲州方面から来る人も必ず興津に出た。これらは地勢上の理由。

それに加え、人的というか政治的理由があった。府中(駿府)の宿には紀州や尾張など親藩大名が泊まったが、外様大名は府中での挨拶を面倒がって、江尻や興津の宿を利用することが多かったという。

興津宿

興津を通る旧東海道は、ここから西久保車庫まで国道1号線と重なる。吉良上野介や浅野内匠頭も、この道を歩いた。

興津宿の宿帳には元禄10年に吉良上野介と浅野内匠頭が、日は違うが何度も同じ宿に泊まり、どちらも草餅を注文した記録が残っているという。長崎のオランダ屋敷に住むオランダ人の一行も毎年のように興津の宿に泊まった。オランダ人の献立には、キジ、ヒラメ、スズキ、卵の他にミカンが出されている。

参勤交代の制度が出来てから、東海道の往来は激増した。それとともに、宿場で用意している人馬だけでは足りなくなり、近隣の村々から人馬が徴用された。これが助郷である。

興津宿の助郷は、袖師、庵原だけでなく、西は瀬名、南は駒越まで48ヵ村に広がっていた。江尻宿の助郷は33ヵ村である。興津宿の賑わいが判る。

【用語解説】助郷 (横浜国道事務所・よここくナビ)≫

参勤交代は気候の穏やかな3月から7月までの時期に集中して行われた。また、天下太平の時代が続くと、大名行列も贅沢になり、寝具、衣類、食器の他に風呂桶まで運んでいる。増える荷物を運ぶための人馬が不足し、助郷から供出された。しかし、百姓にとっては一年で一番忙しい時期である。人馬が大名のために徴用されることは苦役であった。

江尻宿に残された記録から推測すると、江尻宿助郷33ヵ村から年に延3万6千人が徴用された計算になる。本来の制度は100石当たり2人馬2匹だったが、その200倍が徴用されていた。困窮した村惣代はたびたび奉行所に嘆願書を出している。記録では1863(文久3)前後が一番酷かったという。寺田屋騒動、生麦事件、薩英戦争の頃である。

そんな民百姓の苦しみを、駕籠に揺られる大名が知るよしもない。参勤交代は消えたが、民の声が届かない為政者の姿は、現代にも通じる。

蒲原の海岸から見る清水

蒲原海岸から見た清水の姿が好きだ。東海道を旅した数知れない人たちも、この景色に足を止めたと思う。


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「興津宿」へ届いたコメント

若い時期青年団活動をやってました
興津地区は青年団活動が活発で地区ごとに青年団がありました
八木間のある先輩いのお宅の玄関はトンネルで自動車が擦りはしないかと恐る恐る入っていきました
かれこれ25年近くご無沙汰をしていました
八木間という地名の由来についてご存知かなと思いたずねていきました。記憶を頼りにちかくまで行くとなんとトンネルがないではありませんか?しかしそのトンネルにタイルで絵が描かれていました
ではドコから入るのか?捜していると橋からお宅の庭に入るようになっていました。興津北保育園の近くです
是非ごらんになってください

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