清見寺の血天井

山門をくぐると右手に間口十一間半の「大方丈」が見える。前庭の這うような枝振りの木が家康が来遊した時に接ぎ木したといわれる臥龍梅である。三和酒造の「臥龍梅」は、ここから取った商標だ。写真左端に見える一段低い庇が「大玄関」である。(鐘楼東側の「潮音閣」より撮影)
年末から続いた慌ただしさが一段落した1月3日の午後、興津の清見寺に出かけた。
風もなく、西に傾きかけた太陽がひどろしい(眩しい)。石段を上がり、東海道線の線路をまたぐ橋を渡ると山門に着く。境内の建物への拝観案内が出ていたので入ることにした。これまで何度も来ているが、いつも五百羅漢像を散策するだけだった。

受付をすると、若い僧侶が手を伸ばし「血天井があちらになりますので、順番にご覧下さい」と教えてくれた。梶原景時一族がここで戦い、その血痕が天井板に残っているというのだ。僧侶の指の先を見ると、天井が朱色に染まっている。血で染まったような天井を見上げ、息をのんだ。
間口十一間半、奥行九間半の「大方丈」の通路に沿って赤い毛氈をひいてある。毛氈に西日が当たり、周囲を赤く染めている。くすんだ赤は「血天井」そのものだった。

梶原景時は源頼朝没後の混乱のなかで、追放され京都を目指したが、鎌倉幕府は追手を差し向けた。清見寺での戦いは頼朝没後の翌年、正月20日の夜だった。梶原一族と戦ったのは鎌倉からの追撃軍ではなく清水周辺の入江一族だったという。
「清見寺略由緒」を読むと、「血天井」は西日を受け赤く染まっている「大方丈」ではなく、その西側に作られている「大玄関」の天井板のようだ。
「大玄関」は寺の入口の反対側にあり、元和年間(1615~1624)に家康公姫君が寄進したものだ。その時、清見関の古材を天井板として使っている。

「大玄関」の中。この天井に梶原一族との戦いの血痕が残っている板が使われているというのだが、残念ながら暗くて何も見えなかった。
1616年、家康没後の徳川幕府は禁教令を出しキリスト教の布教活動を禁じ、鎖国政策を固めつつあった。国内での争乱を平定し、世界との交易と防衛に政策の中心が動いた。鎖国は、安全な交易の場を確保しつつ異国からの侵略を封じる防衛政策だった。国の進路が大きく変わるなかで、清見関は解体され、寺の玄関として再利用されたのかもしれない。
清見関の傍に寺が建立されたのは白雉年間(650~ 654)という。年表を見ると、大化の改新、白村江の戦い、遣唐使の文字が並ぶ。古代国家の形成が始まった時代だ。
西日を受け赤く染まった天井板に、清見寺が見つめてきた歴史の記憶が塗り込められている。年の初め、ここに来て良かった。「臥龍梅」が咲く頃に、もう一度訪れてみたい。

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「清見寺の血天井」へ届いたコメント
「清水みんなのお茶を創る会」が開いた催しですね。
西久保の若いお茶やさんが、ブログで紹介しています。
http://nakamu.eshizuoka.jp/e259328.html
磯 | 2009年02月23日
2月22日に清見寺で「地元茶でもてなす会」という催しをやってたので参加してみました。いつもは静かな寺の中が多くの人でにぎわってました。清水のお茶が数種類飲めて、若い職人さんが和菓子の実演販売してました。(潮音閣にて)本堂ではコンサートが2回開催されました。感動したのは、グラムん千円のお茶。小さなお茶碗で飲みましたが、おいしかった!
小梅 | 2009年02月23日
とてもよかったです
雄貴 | 2009年02月21日