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2007年12月16日 祭

秋葉山大祭・火渡り

秋葉山・火渡り

火渡りは夜9時から始まる。山伏と消防団の人たちが本殿に入り、2本の松明が護摩壇に運ばれる。火がつけられたのは9時15分、山伏を先頭に火渡りが始まったのが9時40分だった。

「袖師村誌」によれば秋葉山で初めて行われた祭礼は元亀2年(1571)11月16日である。それ以来、毎年11月15、16日に行われていたが、太陽暦が使われるようになって12月となった。7月の新盆、8月の旧盆と同じである。

私たちが「秋葉山」と呼ぶのは本殿をふくめ境内全体だ。袖師町誌によれば、山上の本殿は「秋葉寺」で真言宗醍醐派に属する寺院である。真言宗醍醐派となったのは明治3年、明治政府より出された「神仏分離」によるものだった。清水市史には、その経緯がこう書かれている。

 神武創業にもとづく王政復古は、祭政一致の神権の復活であった。新政府は天皇を絶対的な神格者にするため、神祗官を再興した。そして明治3年(1870)1月3日、神・儒・仏の習合した神道を分離して、天皇を崇拝の中心にする大教宣布がだされた。これにより神道の国教化がはかられるのであるが、その一方で廃仏毀釈とキリスト教の弾圧が行われた。これを世に神仏分離といっている。(中略)

 秋葉山は、江戸の大名屋敷の人たちにも知られていた。ところが大教宣布により神仏分離と俗言禁止から存続の危機にさらされた。当時の修験者天野善応は、修験道の禁止に対して真言宗醍醐派に属することによって命脈を保とうとはかった。それを支えたのは住民の秋葉山への信仰のあつさにあった。いかに権力を持った新政府といえども民衆の信仰までも押さえきれず、やがて修験道は復活し、今日まで火伏せの行事や厄払いの護摩修法が伝えられたのである。(清水市史・第2巻より)

秋葉山の歴史は、明治3年の神仏分離と、昭和27年の宗教法で大きく変化している。明治時代に始まった国家神道、そして戦後の民主化のなかで変化した宗教法。そんな国家の変化とは別に、数百年も変わることなく続いている人々の信仰について、調べてみたいと思う。

秋葉山秋葉寺

秋葉山さんへ入るとL字型に参道が曲がる。両側に店が並び一番混み合う場所だ。そこを抜けると左側に峯本院本坊がある。線香に束のまま火を付け、煙を身体に振りかけ拝礼する。新しい年を迎えるため今年一年の穢れや煩悩を清める。

秋葉山に参拝すると、年配の人たちに混じって、小さな子どもを連れた家族連れをよく見る。信仰というと、気持ちが構えてしまうが、400年以上も前から、地元に伝わる行事に参加することで、心のどこかに安堵が産まれるような気がする。

秋葉山秋葉寺

修験者たちが山頂にある本殿から降りてきた。法螺貝の音色が辺りに響く。

16日の朝、ドリプラ駐車場で開かれている「あっ朝市」に出かけた時、友人たちに火渡りに来るように誘った。火渡りが始まる頃、友人たちが護摩壇の近くに来ていた。そのなかに袖師中の同窓生もいた。

清水ではよくあることだが、友達の輪が広がると自分の人脈に繋がってくる。人と人との繋がりが直線で広がるのではなく同心円のように広がり、円と円との重なりがいくつも出来てくるのだ。

結婚などで実家を離れても、清水のなかに留まっている人が多いのだと思う。友人たちが作り出す同心円の広がりと重なりは、強力な情報連絡網である。それを、まちづくりにも活かせないだろうかと、火渡りの順番を待ちながら、ぼんやりと考えていた。

秋葉山・火渡り

今年は祭礼が土日となったこともあっていつもより人出が多かったと思う。火渡りの順番の列が纏殿から本殿につながる山道の上にまで伸びていた。秋葉山の祭りが終わると、あとは年越しだ。

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