ゆうかりの木

袖師小学校のグランドから子どもたちの元気な声が聞こえた。サッカーの大会をやっていた。
低学年の試合なのだろうか、普段ならエンドラインとなる長さをサイドラインに使っている。ゴールも小さく見える。
袖小の校舎は職員室がある本館と教室がある新館に分かれている。上の写真の右に見える本館の完成は1955年(昭和30)、左側の三階建と四階建の新館は1961年(昭和36)。半世紀を越えた建物と、あと少しで半世紀となる建物となった。
新館の工事着工は1960年(昭和35)4月で、完成は1961年7月である。校舎が完成する直前の6月29日に袖師町は興津町など隣接4町村と共に清水市に吸収合併している。
袖師町誌には合併直前の町財政についての章がある。それによれば、合併前年の1960年の予算総額は1億2600万円、合併年の1961年には1億8800万円となっている。規模が増大したのは税収が4000万円増の他に前年度からの繰越金が目2500万円もあったからだ。
歳出を見ると、教育費が突出している。合併前の2年間で1億3400万円。これは年間予算と同じ規模である。負債の項目には中学校建築費はあっても小学校の項目はない。借金なしで小学校の校舎を造っている。
1961年の新館完成は、「日本一の校舎」と評されテレビでも紹介された。配膳用のエレベーター、各教室にテレビがあり、本館のスタジオから番組が流された。東京オリンピックの試合も教室のテレビで見た。
どんなに素晴らしい設備も、完成から半世紀となれば過去の栄光となる。大地震に耐えられないと診断され、昨年夏から工事が行われた。新館の南側、4階建の部分が完了している。ベランダは撤去され、エックス型の梁で補強された。

袖師小学校のシンボルはゆうかりの木である。
ゆうかりの1本は倒木の恐れがあると伐られた。中が空洞になっていたという。残りの木も、昔を知る者には痛々しく見える。4階建ての校舎を見下ろしていたかつての姿が目に浮かんでくる。
6年生の頃、ゆうかりの木を背にして馬乗りが流行った。馬とそれに飛び乗るを合わせて20人位いたと思う。これだけの人数だと、どんなに飛び乗っても後ろから数人の馬にみんなが乗りかかる。ジャンケンどころか全員が乗る前に馬が崩れた。それが面白かった。
ゆうかりの木の大馬乗りは職員室の窓から丸見えとなり、危険だと中止になった。
面白がって人数が増えていったが、子どもたちの側からの歯止めは効かない。大人の見守りが必要だった。・・・などと判ったようなことを考えるようになったのは、馬乗りから何十年も経ってからだ。
●馬乗りの遊び方を教えてくれるサイトがある。
「ゆうかりの木」へ届いたコメント
放送部は楽しかったです。ディレクターを担当しましたがスイッチャーにインカムで指示を出す前にちゃんとカメラは切り替わっていました。当時はすごく緊張した生放送だったのに今から思うと可笑しいやら懐かしい感じです。ゆうかりの木も放送室もあのころのままで心に焼き付いています。
がんぶり | 2008年04月11日
私も六年生の時に袖師小の放送部におりました。村松さんの少し後輩だと思います。
私が放送部にいた時には世古先生のご指導の下、部員がカメラマン、アナウンサー、照明、スイッチャーなど、いろいろな役割を分担し、放送を行いました。放送開始前のイントロでは、音楽室からレコードを持ち出して流していましたが、私のお気に入りはペールギュントでした。
当時、オープンのビデオデッキがあり、録画制作した番組も放映しておりました。かなり高価だったと思います。
世古先生には個人的にアマチュア無線のご指導もいただき、大変お世話になりました。ご健在でしょうか?
やましゅう | 2008年01月12日
ユーカリは確かに袖小のシンボルでした。
私は入学が東京オリンピックの年で、新幹線が通るのを上の階まで行き、「夢の超特急 新幹線ひかり号」と言ってました。
私が六年生のとき、放送部の部長をしました。ディレクター兼で、今思うと小学生によくあそこまでやらせてもらえたかと、感心します。ちなみに、夏休みに入る一学期の終業式の日に、放送部員たちでアポロの月面着陸を見たのをはっきりと記憶しております。
この放送施設をはじめ給食施設など立派な小学校は、袖師町が清水市に合併する際に、固定資産税で蓄えたものを子供たちにということで、建設したと聞いていました。
今思うと低学年の頃までは、講堂で定期的に映画の上映会や、劇団たんぽぽ、音楽会など催され小学校としては贅沢だったと思います。
そういえば、昭和36~7年頃NHKが袖師小学校を取材に来て全国放送したフィルムが放送室に残っていました。今はとっくに捨てられているでしょうね。。。
こうなるといろいろと思い出されてきます。
昭和38年頃まであった、麦わら祭り。横砂の大漁旗の応援がすごかった町民大会。。大体において袖師地区は弱かったですが。。
袖師がいまだに残っていると思う所は、嶺の通称「お堂」でしょうか。。
村松 | 2007年09月06日
確かにそうですね
卒業生 | 2007年02月17日
私の頃も袖小の生徒数は1500人位だったと思います。今はグランドと呼びますが、「運動場」と呼んでいましたね。
水はけの悪さは昔と同じです。運動会の朝に、雨でぬかるんでいた運動場に製材のおがくずを蒔いていたのを覚えています。
磯谷 | 2007年01月09日
袖小の耐震工事を見て本館の完成30年との事、私が袖小を卒業したのが昭和29年3月でした。今思うと工事していたのも忘れていました。新館の工事着工昭和35年4月 35年3月高等学校を卒業でした。校舎を見るたび、私学へ行く生徒(10名程)と共に放課後学んだ事を思い出していましたが、私達の学びやではなかったんですね。今生徒の数も少なくなりましたが私達の時代は1500名位いたと思います。運動場も広々使用できる事いいですね。
高橋美智代 | 2007年01月08日