善玉と悪玉

金達寿氏の著書によれば、黒駒の「駒」は馬ではなく、「高麗」が起源となっている。清水の駒越も同じだという。黒駒の勝蔵生家は御坂路農場となっている。
NHK木曜時代劇の「次郎長・背負い富士」は、吉良の仁吉が義理と人情の板挟みになり、最終回の荒神山の決闘を残すだけになった。
「時世時節は変ろとままよ 吉良の仁吉は男じゃないか おれも生きたや仁吉のように 義理と人情のこの世界」(「人生劇場」佐藤惣之助作詞・古賀政男作曲)
村田英雄が唄った「人生劇場」は1959年(昭和34)に発売されている。もともと戦前に作られた唄だったという。戦時中は国家が掲げる大義の前にあって、義理と人情を秤にかける余裕すらなかったのかもしれない。

万世町から巴川越しに上町の八雲神社を見る。左端に見えるのは万世橋である。
講談や映画では善玉の次郎長、悪玉の勝蔵と描かれるが、これはフィクションである。恋女房を離縁して決闘に出向いた吉良の仁吉も、実際には結婚歴がなかったらしい。
フィクションの世界では、善と悪、白と黒をはっきりさせた方が分かりやすいが、現実は複雑であり、一面だけを見て軽はずみな判断はできない。
吉良の仁吉の故郷である現在の三重県幡豆郡吉良町では、吉良三人衆と地元出身の人物を自慢する。三人衆とは、吉良上野介、吉良の仁吉、尾崎士郎である。
吉良上野介は忠臣蔵では敵役だが、地元では「吉良さん」と呼ばれ名君とされる。
黒駒の勝蔵は清水の次郎長から見ると「甲斐国悪党」であるが、生家に近い山梨県御坂町には時の山梨県知事の筆になる御影石の立派な石碑が建てられているという。
黒駒の勝蔵は明治4年に処刑されたが、その3年後には子分の風雲亀吉が次郎長に果たし状を突きつけてきた。山岡鉄舟は、次郎長と風雲亀吉を浜松に呼び、和解させている。その時、次郎長は57歳だった。