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2006年07月01日 次郎長

アウトローの仲裁

梅蔭寺

次郎長は庵原川の仲裁で世間に名が知られるようになった。

いつの時代でも、利害の対立する両者を交渉で納得させる度量は大物の証だ。次郎長について書かれた本を読むと、幕末という時代のなかで次郎長の持っていた資質としての「調整能力」が、大きな役割を果たしていたことが書かれている。


徳川幕府は全国を支配していたが、治安維持に当たる代官の数は極めて少なかった。鎖国政策のお陰で、対外的な緊張関係も薄かったから、祖国防衛にあたる武装兵力も必要なかった。昨今流行の小さな政府(チープ・ガバメント)だったのである。

江戸時代、清水は幕府の直轄地、つまり天領であった。ただ、清水すべてが天領ではなく、寺領や旗本領などが複雑に絡んでいた。統治が一元化されず、小さな領地が縄張り争いのようにせめぎ合っていたのである。

それに加えて、流通の拠点として貨幣経済が発達してゆくと、近郷近在から人が流れ込んでくる。治安を担うのは代官ではなく、地元の侠客に十手を与え、目明かしとして登用していたという。アウトソーシングというか、経費節減のための民間委託である。

かくして、アウトローが警察を兼任することになる。敗戦直後と似ているのかもしれない。

十手を持った侠客たちは国家権力である代官への忠誠心を顕示するために、手入れをすることはあっても、一網打尽にはしない。小物を捕まえて、自分たちが経営する賭場を守っていた。

治安の担当者が裏世界の面々だから、小競り合いは避けられない。そんな中で、侠客同士の喧嘩を仲裁する人物の評価が高まるのは当然だといえる。警察と裁判所と調停委員会と相談所の役割を、「仲裁」が果たしていたのである。

万世橋

戦前から戦後にかけて、講談や映画で次郎長は絶大な人気を誇った。

黒鉄ヒロシによれば、昭和24年から43年までの20年間に、次郎長の映画は81本作られている。昭和29年と36年には9本、33年には8本が作られた。驚くべき数だ。

時代劇のなかでは「忠臣蔵」とトップを争う作品数だろう。次郎長の「仲裁」能力の高さと、個性豊かな子分達のエピソード、そして風呂屋のペンキ絵でお馴染みの富士山と白砂青松が加わって、絶大な人気を博したのだろう。

そんな次郎長人気も、昭和40年代に入ると映画の世界では影を潜める。

なぜ、次郎長は戦前から人気を誇ったのか、そして、なぜ次郎長の映画が作られなくなったのか。

次郎長という人物に期待し、拍手を送った時代があった。その時代の空気に近づいてみたい。NHKの次郎長ドラマを見ながら、そんな気分になった。

【写真上】梅蔭寺の六地蔵様
【写真下】万世橋(よろづよばし)。波紋のように見えるのは小魚の群れ


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