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2006年07月17日 袖師ふるさとの路

(33)龍雲院

龍雲院

「袖師ふるさとの路」33番目は「瑞祥山龍雲院」である。

創建は明応年間(1942~1500)と言われ、500年の歴史を持つ。

興津の清見寺は江戸時代、朝鮮から使者を接待したことで名高いが、龍雲院は享保4年(1719)から、三度、朝鮮からの使者の宿となっている。接待を担当したのは京極家で、江尻の宿で饗応し、龍雲院を宿坊にしたという。


江戸幕府では寺と神社を寺社奉行が統括する。寺社奉行の他に、幕府の財政や天領を担当する勘定奉行、司法警察など民政全体を担当する町奉行があった。これらは三奉行と呼ばれ、幕府の統治機構の中枢を構成していた。

勘定奉行と町奉行は老中に属していたのに対して、寺社奉行だけは将軍直属で三奉行のなかの最上位であった。

寺社奉行が重視されたのは、寺が管理する檀家制度が現代の戸籍と同じ役割を持ち、年貢を収める対象者を管理し、農民が土地を離れることを監視する役割を担っていたからだ。

江戸時代の税収は農民からの年貢、米による直接税だから、農民を管理する役割は極めて重大だったのである。

龍雲院

昭和36年(1961)に発行された「袖師町誌」には、龍雲院の山門際の庭に江戸時代の書物にも紹介されている「毘羅樹」(びらんじゅ)があると記されている。

龍雲院の山門をくぐり、境内に入るとすぐ右側に、一本の大きな木がある。盆踊りの時に夜店のテントがあった場所だ。銘板はないが、これが「毘羅樹」のようだ。

盆踊りと言えば、サイコロ賭博が開帳される台を「盆」と呼ぶ。

賭場を取り仕切るのは「中盆」で、丁と半に賭けられた金額を瞬時に計算する役目を持っている。計算が遅い中盆は「盆暗(ボンクラ)」と罵られたという。

毘羅樹は別名「ばくちの木」ともいう。次郎長の時代、寺と賭場は浅からぬ因縁があったのかもしれない。

龍雲院

●「龍雲院」をALPSLABで見る35/2/9.976,138/29/13.601

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「(33)龍雲院」へ届いたコメント

龍雲院前の池田生花店さんは、PTAや子ども会で奥さんとご一緒したことがあって、よく知っております。清水では、人脈をすこし辿ってゆくと、自分の所に戻ってきますね。広いようでいて狭いんです。

さてさて、今夜の「背負い富士」は「久六」への制裁です。初代お蝶との別れ。物語は、荒神山に向けてどんどん走っていきます。楽しみ、楽しみ。

龍雲院前の池田生花店は僕の知り合いです。
池田の息子さんとは今でも親友と思っています。

次郎長一家28人衆とくれば、親分以下、大政を筆頭に、小政、石松とくるが、その次の格に「増川の仙右ヱ門」の名が挙げられる。26歳の時、侠客であった父親を伊豆の金平に殺された仇討ちに次郎長をたよったときから清水一家に加わった。石松が殺され都田一家への報復の後のことであるから、一家にしてみれば新参者が瞬く間に№3の地位まで上り詰めることができたのは、武術の他に彼が「盆」に明るく、一家の財形を安定させていたからではないだろうか。
梅蔭寺には墓石が大政、石松らとともにならんでいるが、ギャンブラーの一番人気が仙右ヱ門の墓石だそうです。
一家を持つものにとって賭場は重要な財源のひとつで、「侠客と岡引」の二足のわらじを履くものは、この「盆」を見逃すことで「かすり」を得たりしていた。そのため逆に揉め事がおこることをもっとも恐れていたといいます。十手持ちとはいえ仲裁などていの良い話よりも護身のため時には(役人に)人を売ることも茶飯事だったそうです。
サイコロ賭博の他に相撲の興行による木戸銭もまた大きな財源だったのではないでしょうか。庶民にも人気のあった相撲の方が公然と収入を得ることができた可能性もあります。神社や寺はあるときは賭場としてまたあるときは相撲の土俵としてパブリックなスペースに変身したのです。次郎長本人も相撲をとるのが大好きだったようで、晩年には山田長政顕彰碑建立のための興行を駿府城に企画しました。
また相撲取りの中にも博打がらみで侠客と2足のわらじという者も多くいたようです。八尾ヶ嶽の宗七(のちの穂北の久六)もその一人です。
今週の次郎長ドラマはこの「久六殺し」がテーマ。
次郎長親分のどんな制裁がみられるか、楽しみですね。

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