ISONOTE

ケセラセラ

●2012年1月28日

きょうびの磯

駿河湾フェリーで土肥から清水に向かっている時、海が黄金色に輝いた。

 友人がタイのCMを教えてくれた。この映像を見て涙がとまらなかった。これまで、「ケセラセラ、なるようになる」という歌詞に、流れに身を任す無気力さを感じていた。もしかしたら、子どもの頃大好きだったクレージーキャッツの「無責任」とイメージが重なっていたのかもしれない。

 人生の終わり支度を始めている二人の父と接しながら、あるがままに受け入れることが、少しだけ出来るようになってきた。とは言っても、まだまだ邪念に惑わされ右往左往しているというのが正直な姿だ。それでも、「あるがままに受け入れる」心境のようなものが、以前よりは判ってきた気がする。

 「あるがままに受け入れる」ことは、手を掛けないということではない。その人の気持ちと身体を、そのまま受け止めることは、放任とは逆の関係だ。終わり支度のなかで、人生を再構成する作業は、本人にとっては自然な行為だが、傍目には混乱の極みに見えしまう。そのギャップを埋める作業には、割り切れなさ、やるせなさがつきまとう。

 クレージーキャッツが「無責任」で描いた笑いの意味が分かったのは、大人になってからだった。逃げられない現実があるから、映画館の中で笑い飛ばしていた。誰もが無責任になれない。だから社会や家族が成り立っている。責任の反対語は無責任ではなく、無関係だ。たとえどんなに希薄でも、人と人の間にはつながりがある。悪態をつこうが、糞尿にまみれようが、それは生きている証拠だと思いたい。だからこそ「涙でたときゃ空を見る」で、「ケセラセラ」と歌うのだ。


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